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第1回 横浜金港クラブOB総会 出席リポート |
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| 2006年8月5日(土) 横浜・関内にある大雅飯店において、記念すべき第1回横浜金港クラブOB総会が開催されました。当クラブ副部長の鳥山さんが発起人となり、30名弱の当クラブOBの方々と、山口部長、頓宮総監督、中村監督をはじめとする8名の現役出席者が集まりました。 1942年に戦前最後の都市対抗に蚕糸クラブとして参加し、その歴史をスタートさせた伝統ある当クラブですが、OB総数は293名となっていました。チーム紹介では詳しくは触れていませんが、横浜金港クラブは横浜スタジアム初代社長でいらした山口久像さんがオーナーとして戦後の1946年にチームを復活させ、東京六大学の名選手が集まり、戦後の昭和21年から5年連続で都市対抗野球で後楽園へ駒を進められた、アマチュアチームの名門であったことは部員一同も理解しておりました。今回の総会では、幹事役の鳥山さんが用意してくださった数々の写真や資料の中には、現役が知らない数多くの横浜金港クラブの歴史が発見されました!!! |
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初代監督でいらした鈴木茂さんは、法政大学野球部を東京六大学リーグ初優勝に導いた豪腕投手だったと言うことや、第2代監督の若原正蔵さんは昭和10年前後に早稲田大学のエースとして活躍されていらっしゃったこと。そしてOB会会長に就任され、神奈川県野球協会相談役(前会長)の田村稔さんが第4代監督であったことや、副会長になられた神奈川県野球協会副会長の石田宏さんはその後を引き継がれた第5代監督でいらしたことなど!! もう数々の発見や驚きがあり、長く所属していても知らないことばかりの歴史と伝統のあるクラブなんだと実感しました。 昭和53年に竣工した横浜スタジアムですが、同スタジアムの前身は「平和球場(横浜公園野球場)」と言いましたが、戦後進駐軍の兵隊が使用していた頃はなんと「ゲーリック球場」と呼ばれていたそうです(もちろんベーブ・ルースやルー・ゲーリックなどのアメリカ野球の選手名から来ているのでしょう)。 |
| 戦後、ハマの野球ファンたちが待ち望んでいたのは、金港クラブ・高商クラブ・高工クラブの3チームの戦いでした。昭和21年当時の新聞には次のように書かれています。「横浜貿易復興記念祭野球大会は7月25日横浜ゲーリック球場で高商クラブ対高工クラブ(13時)金港クラブ対高商高工クラブ併合軍(15時)の2試合が行われる」 横浜高商とは現在の横浜国大工学部で、横浜高工とは同大学経済学部だそうで、ハマの早慶戦として人気を博していたそうです。(ちなみにその時の試合では、金港クラブが5−2で商工併合軍に勝っていました。これって、東京六大学OB選手が集まるクラブチーム対横浜国大の試合、って言うことですね・・・笑) その中でも特に横浜のベースボールファンを熱狂させたのは、横浜高商対高工戦と日本石油対日本鋼管だといいます。また、日本石油が強者になるまでは金港クラブが東京六大学で活躍した名選手たちを集め、横浜の野球王国の礎を築いたと新聞には書かれています。 |
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昭和53年4月23日に開催された横浜スタジアム落成記念ゲームには、金港OB対高商・高工OB併合軍戦が記念試合として14時半に開始され、そのサブイベントとして日本石油対日本鋼管のオープン戦も行われています。 横浜金港クラブと名を変えてチームが誕生して今年で60周年の伝統と歴史を持つ当クラブも、歴代監督は現在の中村監督が第11代監督となりました。60年で293名のOBと60名の現役を足せば、約350名となり、毎年6名の部員が入部している計算になります(あまり意味はありませんが!!笑)。クラブチーム活性化の波をタレントの欽ちゃんが作り出していますが、今年100周年を記念した函館大洋(オーシャン)倶楽部や私たち横浜金港クラブなどの日本野球の歴史を語る上で欠かせないチームも頑張っていかなければいけないのだと、またにわかに発足するクラブチームが多い中、何年もレベルを持続しながらチームを存続させることがいかに大変なことであるか、今回のOB会で気持ちを新たにすることができました。 |
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あわせてこの度OB会より、チームに対して多額の寄付金をいただき、とても感謝の気持ちでいっぱいです。現役選手たちは、金港クラブを長年にわたり存続・繁栄させるために尽力されてきた方々に対し、感謝の気持ちを精一杯のプレーで表すとともに、過去の金港クラブの歴史を新たに塗り替えられるような活躍で、お世話になっている方々に少しでも恩返ししていければと思っています。 是非ともOBの方々、今後予定されている大会へ見学に来ていただき、皆さんの後輩たちの活躍を応援していただければと思います!! 選手一同心よりお待ち申し上げております!!! |
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